このしろ寿し(このしろずし)とは、姿寿司の一種で、体長20~25センチメートルのコノシロ(鮗)を丸ごと用いて作る京都府京丹後市久美浜町の郷土料理である。
コノシロの姿寿司は、熊本県天草地方の郷土料理にもあるが、米ではなくおから(卯の花)を用いるところに、久美浜の「このしろ寿し」の特徴がある[1]。
古くは家庭において、久美浜湾のコノシロの漁獲シーズンである冬(9月頃~4月頃)に作られた保存食の一種。
現在では久美浜町内の店舗1、2軒で製造・販売し、伝統の味が守られているが、その期間も冬期(11月頃~3月頃)のみであり、悪天候が続くと漁に出られなかったり、そもそも手作りのため製造量にも限りがあるため、希少なものである。
コノシロは、関東地方においてはコハダと称され、久美浜湾では刺し網にて漁獲される。
古来、久美浜湾におけるコノシロ漁のさかんな様子は、久美浜町に伝わる昔話「このしろとり」や、奈良時代に税金として都に届けられたことを記す木簡からも窺い知ることができる。
なお、奈良時代の木簡には「近代(コノシロ)」と表記されている[2]。
一説に拠れば、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いの前、久美浜を治めていた細川家の家臣松井康之は、徳川家康に謀反の疑いをかけられ窮地に陥った細川忠興に進言して、久美浜特産の「コノシロの麹漬け」を端午の節句の贈り物として家康に献上させ、細川家は難を逃れたと言い伝える。
なお、久美浜の記録ではないが、寿司が贈答品として用いられた記録は、鎌倉時代の資料からも明らかとされている。寿司の贈答習慣は室町時代から江戸時代には益々さかんになり、献上寿司の記録は全国に残されている[3][要ページ番号]。
当時は「生絹(すずし)」と呼んだ「コノシロの麹漬け」が献上され、家康の花押印付きの礼状の写しが松倉城(久美浜)近くの如意寺に保存されており、この「コノシロの麹漬け」が、現在の「このしろ寿し」のルーツとする説がある[4]。古文書においては発音が同じ場合、別字を当てることがしばしばあったため、魚へんではなく糸へんの「絹」と表記されたという[要出典]。ただし、子の説は漢字の成り立ちからして不自然であること、丹後地方は丹後ちりめんが誕生する江戸時代以前より絹織物の特産地として知られることから、この「生絹」は「丹後精好」とよばれた絹織物であった可能性が高いと郷土史研究者は指摘する[要出典]。
『京都府熊野郡誌』には、以下の記載があり、これが現存が確認できる唯一の記録である。
「鱅鮨(このしろ寿し)は最初みぞれ壽司として産出せられし處(ところ)なりしが、一般の嗜好に適し好評を博せり。
最初は肉片を細かく切って豆腐粕にまぶし製せしも、いつしか現今の如く改造加工するに至れり。—[5]
姿寿司に移行した時期は不明とされる[5]。
現在の久美浜町で行われている一般的な製法は、以下の通りである[6][7]。
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